石橋湛山の経済思想
石橋湛山は、戦前からジャーナリスト、政治家として各界に影響力を及ぼし、戦後には内閣総理大臣をも担った人物です。
湛山は東洋経済新報社の社長も務め、経済思想を研究、発信し続けました。
第二次世界大戦の前、世界中に蔓延する帝国主義の風潮とともに、大日本主義を進める日本の植民地政策に対して、小日本主義の思想を元に高コストである植民地政策への批判と貿易立国への転身を主張していた人物です。
当記事では、湛山の経済思想のベースにある考え方を明らかにします。
湛山の経済思想は、現代のすべての政治家が聞くべき程に洗練され、また人々の幸福に着眼した経済観と言えます。
『人』中心の産業革命
湛山は、物の生産量を爆発的に増やした19世紀の産業革命に対して、20世紀には『人』中心の産業革命が必要だと提言しました。
人中心産業革命は、物だけを大量に生産して増やしたとしても人々が本当に幸せになるとは限らず、必要な人々に分配すべきという考え方です。
湛山は、「人的産業革命」をこう定義します。
「生産の側面から言えば人類の能力を、消費の側面から言えば生産された財の価値を、極度に発揮する如く社会組織を変化する」
これはリフレション政策のベースとなる考え方です。
失われた20年という経済失政も、湛山のような経済政策的視点があれば少しは違ったものになったのではないかと思います。
経済は、成長・安定・再分配の3つが大切ですが、石橋湛山は戦前から戦後に至るまで一貫して、人を豊かにする経済政策を主張していました。
再分配政策
湛山は具体的な施策として、労働・生活環境の改善と教育の充実を掲げています。
また、軍事費は生産力の増加につながらない消極的な支出であるのに対して「教育や、 衛生や、その他一切の社会改良に費やす国費」は生産そのものの増加を目的とする経費として、その拡充を求めました。
※現代は、安全保障面で当時とは全く異なり、軍事費(防衛費)がかなり抑えられていますので、これはこれで問題です。〜日本の安全保障について考える〜
湛山が富の再分配として掲げた政策の注目すべき点は、教育への分配を重要視していた事です。
教育への投資は決して無駄にはなりません。 生産力の上昇や科学技術の進化と言った形で、大きく人々の豊かさに貢献するのです。
残念ながら、現代の日本では財務省の予算削減路線によって、教育への公支出は世界でも最低水準になっています。

画像 シノドス
人への再分配の根底には、湛山にとっての経済学、経済政策とは究極的には人々の幸福を拡大する為に行うという考え方があったのです。
石橋湛山とリフレーション
当サイトでは、金融緩和政策を持ってマイルドなインフレと経済成長を持続的に行うリフレーション政策が、大切だと訴えてきました。
このリフレ政策を日本で初めて主張していたのが石橋湛山でした。
時は1920年代。
第一次世界大戦が終わり、戦時バブルの崩壊、世界恐慌の足音が日本に忍び寄せていました。
不安定化した為替相場安定化が望まれる中、世界各国が次々と金本位制へと復帰してゆきます。
1929年、アメリカ株の大暴落によって発生した世界恐慌という大デフレ不況は、金本位制という世界的な緊縮政策の流れの中で起こります。
この当時から湛山は「リフレーション政策」という言葉を用いています。
1930年代初めの昭和恐慌それ以降、自らの政策の中核を人間性の回復を不況の下で行うリフレ政策を事あるごとに主張したのです。
主張も虚しく、井上財政で有名な井上準之助蔵相は旧平価による金解禁を実施、金本位制への復帰を強行したのです。
この後に日本を待ち受けていたのは、大デフレ不況でした。
失業率の悪化、物価の下落を経て、農村では身売りが多発するほどの貧困に見舞われる事となります。
結局、金本位制は2年で終わりを迎えました。
その後、大蔵大臣を務めた高橋是清は湛山の主張に鑑み、デフレ脱却の為にリフレ政策を敢行しました。
これによって景気は一気に回復し、日本は世界でいち早く不況から脱却します。
湛山の主張するリフレ政策の効果を世界中に知らしめたのです。
20年もの長きに渡ってデフレから脱却出来ずにいながらも緊縮政策をやめない政府、財務省は本当に歴史を学んでみてはいかがでしょう。
湛山と小日本主義
石橋湛山と言えば、小日本主義を真っ先に浮かべる人も多いでしょう。
小日本主義は単なるイデオロギーではなく、精密なデータと論理に基づいて主張されていました。
湛山は、植民地の維持や獲得にかかる費用が極めて高コストであり、経済、軍事両面で国民の幸福に貢献しないと考えました。
植民地の全面放棄によって軍事費を削減し、可処分所得が増加することで国内経済は発展し、国力の底上げから戦争のリスクすら低下させる効果を唱えます。
「さればもし我が国にして支那(現中国)またはシベリヤを我が縄張りとしようとする野心を棄つるならば、満州、台湾、朝鮮、樺太等も入用ではないという態度に出づるならば、戦争は絶対に起こらない。従って我が国が他国から侵さるるということも決してない。論者は、これらの土地を我が領土とし、もしくは我が勢力範囲としておくことが、国防上必要だと言うが、実はこれらの土地をかくしておき、もしくはかくせんとすればこそ、国防の必要が起こるのである。それらは軍備を必要とする原因であって、軍備の必要から起った結果ではない」
私には当時の帝国主義的な風潮が世界に蔓延する中で、もしも日本がこの小日本主義の方針を採用していたらどうなっていたか?
想像のしようがありません。
ただ、欧米列強から満州の放棄を迫られて開戦に踏み切ったり、軍拡、領土拡張の末に多くの死傷者と経済的損失を被った歴史からは、学ぶ事は多くあるでしょう。
そもそも最大の貿易相手国であるアメリカとの衝突は、大日本帝国に不幸をもたらすことは明白でした。
湛山は、現代の左派が主張するような武力放棄からの極端な反戦自由主義ではなく、経済学的に緻密に、また合理的に国民の幸福につながる思想を持っていました。
戦後の吉田内閣の大蔵大臣として、また総理大臣として日本戦後復興のベースを作った重要な人物が石橋湛山なのです。
石橋湛山の経済思想を現代へ
石橋湛山の経済思想は、そのまま現代の失われた20年からの脱却につながります。
湛山の経済思想をまとめてみます。
①湛山が考える経済学、経済政策は究極的には人の幸福を作るためにある
②リフレーションは、雇用を拡大し人の幸福を最大限に高める為に必須な政策である。
③金融と財政の拡張にとともに人への再分配を行う事で、生産力を高め国民経済を成長させる。
④高コストである植民地政策を転換し、放棄した国と自由貿易を行うことによって、コストを削減しながら両国の厚生を向上させる。(結果として戦争のリスクを低下させる。)
石橋湛山は、単純に植民地政策を高コストとして批判していたわけではありません。
事実、当時のイギリスが植民地としていたインド経営を引き合いに出して、日本の植民地政策の非効率性を批判していました。
現代の単なる平和主義や戦争放棄といった情緒的なイデオロギーではなく、緻密な経済学的合理性に基づき、帝国主義一色に染まった当時の政策を批判したのです。
第一次世界大戦から関東大震災、昭和恐慌をへて第二次大戦に至るまで、石橋湛山は一貫してこの小日本主義、リフレ政策の重要性を主張しつづけました。
帝国主義に染まってゆく日本政府や軍部とは壮絶な争いを展開します。
小日本主義の主張すらはばられる時代に、一貫して声高に叫んだ人は石橋湛山をはじめとして数えるほどしかいませんでした。
私自身、当時の日本の安全保障を考えた時に、即座に植民地をすべて放棄するという事はやや現実離れしているのではないかと推測しています。
しかし、湛山は帝国主義一色に染まってゆく思考停止へのアンチテーゼとして、人々を幸せにする合理的な政策を主張し続けたのではないかと思います。
現代においては、当時の政府が推進する軍拡ムードと同じ様相で消費増税をはじめとする緊縮財政が推進されています。【消費税10%への増税は日本経済を破壊する】
当時の『東亜解放の為、対米開戦やむなし』と、現代の『財政再建のための増税・緊縮やむなし』と重なるものがあります。
結果として悪い方向に行くと一部の人は気づいていながらも、全体の空気に押されて突入してしまう、戦前の軍部が今の財務省に置き換わっただけなのではないでしょうか?
とにもかくにも、石橋湛山のように一貫して人の幸福に着目した経済を主張し続けた政治家は戦後の日本にすら少なく、現代においては必要ながらも見つからないのが現実です。
アベノミクスも開始当初は良かったものの、財務省の指針に沿う形で緊縮政策に傾倒する事となります。
当時の石橋湛山のように一貫したリフレ政策から学ぶ事は本当に多いのです。
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