『表現の不自由展』中止について思う事

展示中止について  

 

愛知県で開催中の国際芸術祭「あいちトリエンナーレ2019」の実行委員会は3日、元従軍慰安婦を象徴した「平和の少女像」などの展示を同日までで中止すると発表した。実行委員会の会長を務める大村秀章・同県知事が記者会見し「テロや脅迫ともとれる抗議があり、安全な運営が危ぶまれる状況だ」と理由を述べた。

 少女像は国内の美術館やイベントで近年、撤去や公開中止となった作品を集めた企画「表現の不自由展・その後」の一つとして出品された。実行委は少女像だけでなく、昭和天皇とみられる人物を扱った作品などを含め企画全体の中止を決めた。

【共同通信】

 

 

今、世間を賑わせているこのニュースに関して。

私が個人的に慰安婦像の展示云々よりも、私が心底不快に感じた事は、昭和天皇の写真を燃やしたような映像を展示していた事。

大手のメディアは慰安婦像ばかりに焦点を当てるが、もっとおぞましい作品がある事を放送してほしい。マスコミの報道は中立か?

 

現代日本において『自由』という言葉はある種、恐ろしい暴力性を秘めている。

自由という言葉を使えば、その表現が人の名誉や尊厳を平気で傷付けてしまう物も簡単に許してしまう。

またそれは『現代版の反権力的イデオロギー』と結びついた価値観には特に強い効力を発揮する。

突っ込みどころが満載なこの一連の流れを、自分の主観を織り込みながらまとめてみます。

 

反権力はアートなのか?

 

そもそも、作品の作る能力がないからと言って反権力を「アート」と言ってしまうセンスには首を傾げる。

私はここで

アートとは?

なんて事を語る気は全くない。

また、こんな稚拙な内容を否定する為に、熱弁する必要も全くない。

誰かを侮辱して反権力芸術家を気取る炎上商法には、乾いた笑いすら出てこない。

 

監督者の「表現の自由」への認識

 

当展示会の監督を務めたジャーナリストの津田大介氏。

彼は「展示会への抗議が想定外であった」と語っている。

そんな予測能力でジャーナリストとは務まるものなのか?

私は心底疑問だった。

 

津田氏は記者会見で、「(抗議による展示会の中止によって)表現の自由を後退させる事例を作ってしまった」と述べている。

 

彼の言う表現の自由とは、一体何を指すのか?

 

『自分のイデオロギー主張の為には、人様の写真を燃やし、侮辱する事も自由である』

こんな、極めて主観的かつ自己中心的な自由であるとしか思えない。

 

 

他方で過去、津田氏は様々な『表現』にクレームを入れ、謝罪に追い込んでいるケースがある。

彼は人気バンドRADWIMPSの『HINOMARU』という新曲について「軍国主義」だと批判している。

HINOMARUの歌詞、「さぁいざ行かん。日出づる国の御名のもとに」

この表現に『自由』はないのだろうか?

 

彼が、ライブでRADWIMPSが『自分の生まれた国を好きで何が悪い』といった事に関するツイッターでの発言。

 

 

排外主義的な表現をした記憶がないRADWIMPSにとっては

『???』

 

であろう。

 

また、彼はミュージシャンである椎名林檎のライブで旭日旗に似たファングッズを使用している事にも難癖をつけている。

 

つまり、彼にとっての表現の自由とは、こういう事だ。

 

俺が気に入らない主張に自由はない。

反権力、反日本の表現には自由が保障されるべきだ。

 

当イベントの一番の問題点

 

とは言え、このイベントの最大の問題点はこれらの内容ではない。

この世間に不快を与えるイベントに、私たちの税金が投入されていたことだ。

 

私自身、表現の自由は『特定の人を傷つけない範囲内で』許されるべきだと思っている。

しかし、このような特定の人を侮辱する表現を用いてた自称アート。

それも、あろうことか昭和天皇という日本国民と共にあった国の象徴を侮辱の対象とした。

このおぞましい表現に、『国民の税金』を投入されて開催されていたのだ。

 

これは、近所の活動家おじさんが勝手に展示をしていたものとは訳が違うのである。

 

近所のおじさんが、自身のイデオロギー主張の為にやっていたのであれば私は当然何も思わない。

そこに表現の自由は許されるべきだとも思う。

 

しかし、繰り返すが今回は国の税金が投入されて開催されていたのだ。

 

これは、中止になって当然だと私は思うのである。

 

自由とイデオロギーについて

 

前述した通り、現代で『自由』と呼ばれる多くの場合、政治的イデオロギーと深く結びついている。

これは人々が、『自由』という言葉に魅了され、また羨望の気持ちを持ちやすいからだ。

イデオロギーを主張し、世間に広めたい活動家はこの『自由』という言葉を使って自らのイデオロギーを補強するのだ。

 

ただ、冷静に考えてみたい。

自由とは、そんなに特別に魅力的なもなのか?

自由とは、自らの信ずる自由を誰かに認めさせる事によって暴力と結託する。

また、信ずる自由を認めてもらう事を放棄する事で孤独と結合するのだ。

 

例えば恋愛至上主義。

結婚の自由を許容した結果、非婚化が進み、多くの孤独を生んだのだ。

自由な恋愛は、一方で孤独を生む事が多いのだ。

『東京ラブストーリー』にみる日本の課題

 

対する束縛は賑やかさとセットとも言える。

 

自由と束縛、孤独と賑やかさはセットであり、どちらが良い、悪いではないのである。

 

この展示会で言う『表現の不自由』とは、「自らの主張(反権力)に批判がある事はおかしいから認めろ。」

という、自由を認めされる極めて暴力的で、かつ幼稚な発想の『自称アート』なのだ。

 

自由は、イデオロギーと結びついた時点で暴力装置と転換するのだ。

 

反戦と暴力について

 

日本国内においては、反戦=平和主義と捉えられている。

しかし、反戦姿勢は戦うことの放棄に他ならない為、戦争を誘発する格好の材料なのだ。

『センソウハンターイ!』

『アベセイジハンターイ』

 

反権力の声は日頃から耳にするだろう。

しかし、反戦、反権力を唱える彼らもまた暴力的であるのが世の常である。

 

 

写真の彼らは、打倒安倍政権を掲げる活動家の講義活動である。

笑えるが、自由を守り、反権力を掲げ、反戦主義を唱える団体の極めて暴力的な表現の実態である。

 

これが国内で実行できる間は、日本には表現の自由が大いに認められていると言える。

 

お隣の独裁国家で行なってしまえば、彼らの命は保証されないであろう。

 

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